東京と長野県の伊那谷を結ぶ主要な道路といえば、今では中央自動車道が思い浮かびます。
中央自動車道は、東京都の高井戸ICから諏訪湖西の岡谷JCTを経由して伊那谷へ南下するルートをとっています。
しかし、江戸時代には日本橋と甲府を結ぶ甲州街道を経て諏訪と伊那の境にある杖突(つえつき)峠を越え、現在の伊那市高遠を経由して直接伊那へ抜ける街道が整備されていました。
杖突峠から伊那に抜ける道を杖突街道といいます。
杖突街道は杖突峠から高遠を経て、伊那部宿で天竜川沿いに南北に延びる三州街道(伊那街道)に合流しました。
三州街道は信州と三河地方を結ぶ当時の重要な物流ルートでしたから、東の甲州街道と西の三州街道を結ぶ杖突街道は江戸時代以前から重要な交通路となっていたことが窺えます。
また、杖突街道は江戸時代に伊那を治めていた高遠藩により参勤交代にも利用されました(ちなみに、現在の新宿御苑は高遠藩主内藤家の屋敷があった場所を公園に整備したものです)。
前置きが長くなりましたが、今回は伊那市高遠の御堂外垣(みどがいと)地区に残る「藤沢城」をご紹介します。
藤沢城は、標高1,032メートルの蛇山(じゃやま)を利用して築かれた山城です。
クルマで高遠の市街地から杖突峠に向かって藤沢川沿いに進むと、左手にぽっこりとした山が見えてきます。
登城口は、集落の途中、道路の左側に「←藤沢城跡」の標識が設けられているためすぐに分かります。
クルマを降り、藤沢川に下る道を徒歩で辿ると小さな川を跨ぐコンクリート橋の向こうに針金で組まれた柵が見えます。
「ドアを開けたら必ず閉めてください。」の看板に和みますが、柵を開けずとも左側に隙間があるのでそこを通過すれば「入城」できます。
しばらく草地を進むといよいよ上り坂にかかりますが、ここにも案内標識があるので迷うことはありません。
城の主要部は標高1,032メートルの山頂にありますが、この場所からの比高は90メートルくらいとされています。このため、実際に山道を登るのにかかる時間は10~15分程度ですみます。
当日はあいにくの雨模様でしたが、新緑の林に囲まれた山道は雨もかからず、静寂に包まれて気持ちのよい散策路となっていました。
急な斜面を九十九折りの道にそってゆっくりのぼると、やがて尾根の途中にでます。ここを左に進めば、城の主要部に至ります。
人が一人通れるような細い尾根道を進んでいくと主郭に通じる屈曲した道が現れ、やがて山頂にでることができます。
山頂についたときは、ちょうど雨もあがって、四方に遮るもののない気持ちのよい展望を得ることができました。
誰が建てたものか東の隅に小さな石の祠があり、その向こうに伊那と諏訪を区切る杖突峠の鞍部が見えました。
主郭には藤沢城跡の説明板が伊那市によって設置されています。
藤沢城は、杖突街道という交通の要衝に位置することから戦国時代以前には築城されていたと推定されますが、詳しい来歴は明確でないようです。
山上の施設は山の尾根に数条の空堀を切り、いくつかの曲輪をつなげた連郭式の縄張りとなっていますが、堀切りの幅、深さ、それぞれの曲輪の大きさは小規模なものです。
これらは有事に籠もって戦うには心許ないもので、どちらかというと杖突街道を監視する目的で兵を配置しておくために利用されたものと思われます。
説明板にもある通り山麓に根小屋(ねごや)と呼ばれる区画が別にあり本丸、二の丸等の記載があることから、常時はそちらが城主の居住する主要な施設であったのでしょう。
山頂からは眼下に集落を貫く杖突街道が一望でき、ここが街道の監視拠点として絶好の場所であったことが実感できます。
※藤沢城址へのアクセス
クルマを利用される場合は、中央道諏訪ICから高遠方面に向かうか、中央道伊那ICから国道361号線経由で諏訪・茅野方面に向かいます。
クルマを利用されない場合は、城跡まではJR飯田線を利用し高遠駅前からJRバスで伊那藤沢バス停が利用できます。
参考:
- 一般社団法人 伊那市観光協会 公式ホームページ
- https://inashi-kankoukyoukai.jp/contents/archives/27574
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